Share

83話 イレーネの考え

last update Last Updated: 2025-03-13 09:59:51

「失礼いたしました」

ルシアンは一礼すると、書斎を後にした。

――パタン

扉を閉じて、ため息をついた時。

「ルシアン様」

廊下の角から音もせず、メイソンが姿を現した。

「うわぁ! な、何だ!?」

いきなり音もせずに目の前に現れたことで、ルシアンは情けない声をあげてしまう。

「イレーネ様のお部屋ですが、ルシアン様の隣のお部屋に御案内いたしました」

「そ、そうか? なら様子を見に行くことにしよう」

驚きでドクドクする胸を押さえながら、ルシアンはイレーネがいる部屋へと向かった。

「ここにいるのか」

ルシアンはバラのレリーフが刻まれた白い扉の前で足を止めると、早速ノックした。

――コンコン

少し待っていると扉が開かれ、イレーネが姿を現す。

「ルシアン様。お話は終わられたのですか?」

「ああ、終わった。それで……少し話がしたい。入っても良いか?」

「ええ、どうぞお入り下さい」

「失礼する」

ルシアンは開け放たれた室内に入ると、ソファに腰掛けた。

「イレーネも座ってくれ」

「はい、ルシアン様」

イレーネが着席すると、さっそくルシアンは本題に入ることにした。

「今夜19時に夕食会を開くことになっているから、それなりのドレスを着用してくれ。メイドの手伝いが必要なら俺から口添えしておくが?」

「着替えは用意してあります。1人で準備できますので、お手伝いは大丈夫です」

ニコニコと笑みを浮かべて返事をするイレーネ。

「そうか……分かった。ところで……いくつか尋ねたいことがあるのだが、いいだろうか?」

「はい、どのようなことでしょうか?」

「イレーネは祖父がワイン好きなことを知っていたのか?」

「はい、勿論です。リカルド様に教えていただきましたから」

「何!? リカルドに!? な、何故だ! 祖父のことなら俺に聞けば良かったじゃないか」

思わず席を立ち上がるルシアン。

「申し訳ございません。たまたまルシアン様が不在で、リカルド様に教えていただきました。その際、マイスター伯爵は無類のワイン好きと伺ったのでワインを持参してきたのです」

「そうか……たまたま俺が不在で、たまたま居たリカルドに助言してもらったということだな?」

(リカルドめ……イレーネが祖父のことを尋ねてきたなんて話、一度もしていないとは……)

ルシアンは何故か仲間はずれにされたような気分で面白くない。

「それで、君の祖父がワイン
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   84話 いつの間に!?

    18時50分―ーマイスター伯爵との夕食会に出る為、ルシアンはイレーネの迎えにやってきた。――コンコン扉をノックすると、すぐにイレーネが扉を開けて出迎えた。「ルシアン様、迎えに来て下さったのですね?」ルシアンに笑顔を向けるイレーネ。今のイレーネは金の髪をゆるく巻き上げ、薄緑色の足首丈のドレスを着ている。「ああ、そうだ。……そのドレス、よく似合っているじゃないか」イレーネをもう少し丁重に扱おうと心に決めたルシアンは、慣れない言葉を口にする。しかし実際の所、今のイレーネの姿はいつも以上に美しかった。「本当ですか? ありがとうございます。マイスター伯爵のお好きな色のドレスを着てみたのですよ? 伯爵様に気に入っていただければよいのですけど」「え? 祖父が好きな色のドレスを着たのか?」その言葉に耳を疑うルシアン。(そう言えば……亡くなった祖母はいつも緑色のドレスを着ていたっけな。あれは、こういうことだったのか……ん?)そこまで考え、ルシアンはあることに気付く。「ちょっと待ってくれ……イレーネ。何故祖父が緑色を好きだと知っているんだ?」「はい、メイソンさんに尋ねたからです」「何? メイソンに?」「はい。お部屋に案内していただく間に、マイスター伯爵様の趣味嗜好を尋ねたのです。私の事を気に入っていただくには、まずお相手の方のことを知ることが大事ですから」ニコニコと笑顔で答えるイレーネを見て、ルシアンはゴクリと息を呑む。(もしかして俺は……随分イレーネのことを見くびっていたのかもしれない)「な、なるほど……そういうことだったのか。なかなかやるじゃないかイレーネ」「ええ。お任せ下さい。何しろメイドとして働いていたときは『気配りのイレーネ』と呼ばれていたくらいですから。祖父から処世術は伝授されておりますので。私、伯爵様に気に入っていただけるように頑張りますから」謙遜するでもなく、得意げに胸を反らすイレーネ。(なるほど……こういう天真爛漫なところもイレーネの魅力の一つなのかもしれないな)「よし、なら祖父が待っている。行こうか?」ルシアンは腕を差し出した。「ええ、ルシアン様」イレーネは臆することなく、ルシアンの腕をとった――****(一体、この状況は何なんだ……?)夕食会が始まって、1時間。ルシアンは面白くない気分で1人ワインを飲

    Last Updated : 2025-03-14
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   1話 落ちぶれた男爵令嬢

     イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い

    Last Updated : 2025-01-18
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   2話 好条件の求人

     午前11時半――コルトの町の中心部に到着すると、ルノーは馬車を止めて扉を開けた。「町に着いたよ、イレーネ」そして手を差し伸べた。「ありがとう」ルノーの手を借りて馬車を降りたイレーネは目を見開いた。「まぁ、ここは……」「そうだよ、イレーネが来たがっていた職業紹介所だよ」「まさか、ここに連れてきてくれるとは思わなかったわ。ルノーは仕事が忙しい人だから、職場の近くまでで良かったのに」ルノーが務める弁護士事務所は職業紹介所よりもずっと手前にあるのだ。「何言ってるんだ。そんなはずないだろう? それに君のことだ。恐らく、途中で降ろせばここまで歩いてきていたんじゃないか? ドレス姿の女性を歩かせるわけにはいかないからな。大事なドレスを汚してしまったら困るのは君だ」「あら……分かっちゃった?」肩をすくめるイレーネ。イレーネは薄紫色のツーピースのデイ・ドレス姿だった。このドレスは数少ない彼女のドレスで、面接に挑むための外出着である。「大切なドレスまで大分手放してしまっただろう? もとからシエラ家は貧しい男爵家だったから、君は社交界デビューだって出来なかったじゃないか……今ならまだ間に合う。爵位を手放して、高額で金持ちの商人にでも売ってしまわないか? 俺に任せてくれれば、上客を紹介出来るぞ?」屋敷を手放すことに反対のルノーは最後の説得を試みる。「だから、それは出来ないって言ってるでしょう? ルノーは知らないの? 爵位があるだけで、好条件の仕事を紹介してくれるのよ?」「そんなことくらいは知ってる。仮にも俺は弁護士だぞ?」少しだけムッとした表情を見せるルノー。「幼馴染のあなたが私を心配するのは分かるし、その気持は嬉しいけれど……私は祖父の遺言を守りたいの。それじゃ行くわね。良い仕事が斡旋してもらえることを祈っていて?」「……分かった。行って来いよ」イレーネは笑顔でルノーに手を振ると、ガラス張りの回転扉をおして職業紹介所へ足を踏み入れた――****「え〜と……イレーネ・シエラさん……現在二十歳ですね?」イレーネの前にメガネを掛けた男性職員が、彼女の履歴書に目を通している。「はい、そうです」「……あぁ、なるほど……シエラ家……あまり聞いたことはありませんが男爵令嬢なのですね?」「確かにあまり名門ではありませんが、これでも貴族令嬢の嗜みは

    Last Updated : 2025-01-18
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   3話 奇妙な条件

    「もっとその詳しい求人内容を教えていただけないでしょうか?」身を乗り出すイレーネに男性職員はメガネをクイッとあげた。「はい、良いでしょう。え〜と、まず場所ですが……『デリア』という町ですね。この町から汽車が出ていますね」「『デリア』なら聞いたことがあります。あの町はここよりもずっと近代化の進んだ町ですよね? 確か汽車で三時間程ではなかったでしょうか?」「ええ、その通りです。勤務時間は……おや? 一応二十四時間体制とはなっておりますが、基本夜の勤務は殆ど無いみたいですね。けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せしてくれるそうです。仕事内容は面接のときに教えてくれるそうですが……う〜ん……いかがいたしますか?」男性職員は少し首をひねりながらイレーネに尋ねる。「はい、構いません。ぜひ面接を受けさせて下さい」「ええ!? ほ、本当に受けるのですか? 全く仕事内容が不明なのですよ? しかも奇妙な条件ですし……」「面接に行けば詳しく仕事内容を聞かせてくれるのですよね? すぐに紹介して下さい」今にも住むところを失いそうなイレーネにとって、衣食住保証付きの高額給金の仕事はとても魅力的だった。あれこれと選んでいる時間も手間も惜しかったのだ。「分かりました……それでは紹介状を書きましょう。少しお待ち下さい」男性職員は傍らに置いた便箋に、スラスラと文章を起こすと封筒に入れてイレーネに差し出した。「はい、ではこちらの手紙を持ってマイスター伯爵家に渡して下さい。面接日時は特に細かい決まりはなく、平日の十時から十七時までの間に伯爵家に直にお越し下さいと書かれておりますね」「え!? そんないい加減……いえ、そんな大まかなことで宜しいのでしょうか?」イレーネは驚きで目を見開く。「もしかすると先方も早急に人手を捜しているのかもしれませんね。何しろ二百キロ以上も離れたこの町にも求人を出している程ですから」「そうですね。色々なにか事情があるのかもしれませんね。妙な質問をしていまい、申し訳ございません」謝罪の言葉を述べるイレーネ。「いえいえ、そんなお気になさらないで下さい。あ、そう言えば先程の求人欄で気になる箇所が書いてありました」「え? 本当ですか? 教えて下さい」イレーネは再び、身を乗り出した。「もちろんです。え〜と、口が固い方……秘密保持出来る方を望む、とあ

    Last Updated : 2025-01-18
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   4話 何も無い屋敷

     女の子にお駄賃として三百ジュエルを渡してしまったイレーネ。少しでも節約する為に、辻馬車を使わずに屋敷まで歩いて帰ってきた。「ただいま〜」誰も待つ人のいない古びた屋敷に帰ってくると、食卓用の椅子に腰掛けた。「ふ〜疲れたわ……足も痛いし……」履いていたショートブーツを脱ぐと、足のマッサージをしながら壁に駆けてある時計を眺める。「え〜と、今が十時十五分だから……ええ!? 四十五分も歩いてきたのね? どうりで疲れたはずだわ……」ため息をつくとイレーネは履きなれた室内履きに足を通し、二階にある自室に向かった。――カチャ扉を開けて室内に入ると、イレーネは周囲を見渡す。「……本当に何もない部屋になってしまったわねぇ」言葉通り、この部屋にあるのはベッドと小さな文机、それに壁にかけた姿見に衣装箱だけだった。イレーネがまだ子供だった頃は、この部屋はもっと賑やかだった。女の子らしいインテリアで素敵な家具に溢れていた。それに安い賃金でも文句一つ言わずに笑顔で働いてくれていた使用人たちも大勢いた。けれど祖父が病に倒れてからは賃金すら払うこともままならなくなり、全員に辞めてもらうことに決めた。その際彼らに支払える退職金を作るためにイレーネは家財道具の殆どを売り払い、何とか全員にわずかばかりの退職金を工面することが出来たのだった。その後も祖父の治療費の為に売れそうな物は売払い……すっかりがらんどうの屋敷になり、今に至る。「でも、いいわ。これなら引越し準備も特に必要ないもの。さて、明日の準備をしなくちゃ」イレーネは自分に言い聞かせると、早速出立の準備を始めるのだった――**** 翌朝六時――濃紺のボレロとスカート姿のイレーネが姿見の前に立っていた。「うん、いい感じね。我ながら洋裁の腕前が上がったわ。これが以前はドレスだったなんて人が知ったら驚かれるでしょうね」満足そうにくるりと鏡の前で一回転する。昨晩夜なべをして、外出着用の洋服に作り直したのだ。「どうせ、ドレスを持っていても着ていく場が無いのだもの。宝の持ち腐れだったから丁度良いわね」そしてイレーネはボストンバックを持つと屋敷を後にした――****午前七時半――「ふ〜……やっと汽車に乗れたわ」三等車両の空いている座席に座るとイレーネはため息をついた。今朝も彼女は路銀を浮かせるために屋

    Last Updated : 2025-01-18
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   5話 大都市『デリア』

     約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言

    Last Updated : 2025-01-18
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   6話 『デリア』に来た理由

     イレーネは交番の椅子に座り、青年警察官が馬を連れて戻ってくるのをじっと待っていた。そこへ……「どうもすみません、お待たせいたしました」扉が開き、声をかけられたイレーネは振り向いた。外には一頭の栗毛色の馬の姿がある。「いえ、そんなに待ってはおりませんので」「そうですか? では早速行きましょうか?」青年警察官は『巡回中』と書かれた立て札をカウンターに立てると笑顔を見せる。「あの……でも、本当によろしいのですか? お仕事中なのに……」申し訳なくて、イレーネは伏し目がちに尋ねる。「ええ、お気になさらないで下さい。困っている人を助けるのも警察の仕事ですからね」「はい。それでは恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします」「いいえ、気にしないで下さい」そして二人は連れ立って交番を出た。「では出発しましょう」イレーネの背後から馬にまたがった警察官が声をかけてくる。「は、はい。よ、よろしくお願い……します……」生まれて初めて馬の背に乗るイレーネが声を震わせながら返事をする。「あの? どうかしましたか?」「いえ……お恥ずかしい話ですが、馬の背中に乗るのが初めてなので……こんなに視界が高くなるなんて思いもしませんでした」男爵令嬢でありながら、落ちぶれた貴族。当然イレーネは乗馬など嗜んだことすらない。「そうだったのですか? それなら大丈夫です。後ろから支えてあげますから安心して乗って下さい。逆に怖がると、馬にまでその恐怖心が伝わってしまいますよ」「え? それは本当ですか? なら平常心を保たなければなりませんね」イレーネは背筋を伸ばすと、青年警察官は笑った。「アハハハ……なかなか面白い方ですね。では行きましょう」そして、二人を乗せた馬は常歩で町中を歩き始めた。****「ここが、この町で有名な美術館ですよ。週末になると大勢の人で賑わいます。駅からは真っすぐ行けば辿り着くので分かりやすいです。その向かい側にある大きな建物は洋品店です。有名なデザイナーがいるそうですよ」青年警察官はまるでガイドをするかのように、イレーネに町の案内をしている。「あんなに立派な美術館や洋品店があるなんて、さすが『デリア』の町は大きいですね」始めは馬を怖がっていたイレーネだったが、徐々に楽しい気分になってきた。今は町並みの光景を楽しむまでになっている。「

    Last Updated : 2025-01-19
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   7話 マイスター家到着

    「こちらですよ。マイスター家の邸宅は」イレーネに声をかける青年警察官。「ここが……そうなのですか?」馬に乗ったまま、目の前に広がる光景にイレーネは目を見開いた。「ええ、そうです」警察官は馬から降りると、イレーネに手を差し伸べてきた。「さ、降りましょうか?」「恐れ入ります」イレーネは警察官の手を借りて、馬から降りると改めてマイスター伯爵邸を見つめた。石の壁がどこまでも続きそうな門。フェンスの扉の奥は綺麗に芝生が刈り取られた広大な敷地。馬車が通るための石畳が続く先に見えるのは三階建ての大きな屋敷が建っている。「すごい……なんて立派なお屋敷なのかしら。以前働いていたエステバン家よりもずっと大きいわ」思わず口に出ていた。「ええ、何しろマイスター伯爵家はここ、『デリア』でも名家ですからね。何でも近々、当主交代をすると広報誌に載っていましたよ」「そうだったのですか」(それでは、これから新しい当主になる方が雇い主になるのね)そんなことを考えていると、警察官が声をかけてきた。「それでは、私はここで失礼します。まだ仕事中ですから」「お巡りさん、本当にお世話になりました」「いえ。お役に立てて良かったです」そして再び青年警察官は馬にまたがると、手を振って去って行った。「ありがとうございました」イレーネも手を振って見送る。やがて、警察官の姿が見えなくなると門を振り返った。「こんな大きなお屋敷で、私のような田舎者が雇ってもらえるかしら? 心配だわ……いいえ、そんな弱気な事を言っては駄目よ。何しろここで雇ってもらえなければ私は最悪、宿無しになってしまうかもしれないわ。ここは堂々としていないと駄目よね!」自分自身に言い聞かせると、イレーネは背筋を伸ばす。そして門を開けてマイスター伯爵家の敷地に足を踏み入れた――*** 現在マイスター家の執事を務めるリカルド・エイデンは、今大変困った状況に置かれていた。 何故なら、それは……「ですから何度も申し上げたとおり、ルシアン様はまだお仕事から戻られていないのです。どうぞお引き取り願います」リカルドは応接間のソファに居座っている女性に、必死で訴えている。「いやよ! そんなこと言って、もう何日もルシアン様にお会いできていないわ。私に会わせないために嘘をついているのでしょう?」そして女性は腕組みすると

    Last Updated : 2025-01-20

Latest chapter

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   84話 いつの間に!?

    18時50分―ーマイスター伯爵との夕食会に出る為、ルシアンはイレーネの迎えにやってきた。――コンコン扉をノックすると、すぐにイレーネが扉を開けて出迎えた。「ルシアン様、迎えに来て下さったのですね?」ルシアンに笑顔を向けるイレーネ。今のイレーネは金の髪をゆるく巻き上げ、薄緑色の足首丈のドレスを着ている。「ああ、そうだ。……そのドレス、よく似合っているじゃないか」イレーネをもう少し丁重に扱おうと心に決めたルシアンは、慣れない言葉を口にする。しかし実際の所、今のイレーネの姿はいつも以上に美しかった。「本当ですか? ありがとうございます。マイスター伯爵のお好きな色のドレスを着てみたのですよ? 伯爵様に気に入っていただければよいのですけど」「え? 祖父が好きな色のドレスを着たのか?」その言葉に耳を疑うルシアン。(そう言えば……亡くなった祖母はいつも緑色のドレスを着ていたっけな。あれは、こういうことだったのか……ん?)そこまで考え、ルシアンはあることに気付く。「ちょっと待ってくれ……イレーネ。何故祖父が緑色を好きだと知っているんだ?」「はい、メイソンさんに尋ねたからです」「何? メイソンに?」「はい。お部屋に案内していただく間に、マイスター伯爵様の趣味嗜好を尋ねたのです。私の事を気に入っていただくには、まずお相手の方のことを知ることが大事ですから」ニコニコと笑顔で答えるイレーネを見て、ルシアンはゴクリと息を呑む。(もしかして俺は……随分イレーネのことを見くびっていたのかもしれない)「な、なるほど……そういうことだったのか。なかなかやるじゃないかイレーネ」「ええ。お任せ下さい。何しろメイドとして働いていたときは『気配りのイレーネ』と呼ばれていたくらいですから。祖父から処世術は伝授されておりますので。私、伯爵様に気に入っていただけるように頑張りますから」謙遜するでもなく、得意げに胸を反らすイレーネ。(なるほど……こういう天真爛漫なところもイレーネの魅力の一つなのかもしれないな)「よし、なら祖父が待っている。行こうか?」ルシアンは腕を差し出した。「ええ、ルシアン様」イレーネは臆することなく、ルシアンの腕をとった――****(一体、この状況は何なんだ……?)夕食会が始まって、1時間。ルシアンは面白くない気分で1人ワインを飲

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   83話 イレーネの考え

    「失礼いたしました」ルシアンは一礼すると、書斎を後にした。――パタン扉を閉じて、ため息をついた時。「ルシアン様」廊下の角から音もせず、メイソンが姿を現した。「うわぁ! な、何だ!?」いきなり音もせずに目の前に現れたことで、ルシアンは情けない声をあげてしまう。「イレーネ様のお部屋ですが、ルシアン様の隣のお部屋に御案内いたしました」「そ、そうか? なら様子を見に行くことにしよう」驚きでドクドクする胸を押さえながら、ルシアンはイレーネがいる部屋へと向かった。「ここにいるのか」ルシアンはバラのレリーフが刻まれた白い扉の前で足を止めると、早速ノックした。――コンコン少し待っていると扉が開かれ、イレーネが姿を現す。「ルシアン様。お話は終わられたのですか?」「ああ、終わった。それで……少し話がしたい。入っても良いか?」「ええ、どうぞお入り下さい」「失礼する」ルシアンは開け放たれた室内に入ると、ソファに腰掛けた。「イレーネも座ってくれ」「はい、ルシアン様」イレーネが着席すると、さっそくルシアンは本題に入ることにした。「今夜19時に夕食会を開くことになっているから、それなりのドレスを着用してくれ。メイドの手伝いが必要なら俺から口添えしておくが?」「着替えは用意してあります。1人で準備できますので、お手伝いは大丈夫です」ニコニコと笑みを浮かべて返事をするイレーネ。「そうか……分かった。ところで……いくつか尋ねたいことがあるのだが、いいだろうか?」「はい、どのようなことでしょうか?」「イレーネは祖父がワイン好きなことを知っていたのか?」「はい、勿論です。リカルド様に教えていただきましたから」「何!? リカルドに!? な、何故だ! 祖父のことなら俺に聞けば良かったじゃないか」思わず席を立ち上がるルシアン。「申し訳ございません。たまたまルシアン様が不在で、リカルド様に教えていただきました。その際、マイスター伯爵は無類のワイン好きと伺ったのでワインを持参してきたのです」「そうか……たまたま俺が不在で、たまたま居たリカルドに助言してもらったということだな?」(リカルドめ……イレーネが祖父のことを尋ねてきたなんて話、一度もしていないとは……)ルシアンは何故か仲間はずれにされたような気分で面白くない。「それで、君の祖父がワイン

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   82話 祖父との面会

    「その娘が、この間お前が話していた婚約したいと話していた相手か?」ジロリとジェームズがイレーネを見る。「いえ。婚約したい相手ではなく婚約者です。お祖父様に2人の結婚を認めていただくために、彼女を連れて参りました」緊張しながら返事をするルシアン。「……ところで、いつまで2人はそうやって手を繋いでいるつもりだ?」「え? あ! こ、これはその……違うんです!」慌ててイレーネの手を離すルシアン。ジェームズに指摘されるまで、ルシアンはイレーネと手を繋いでいたことに気づかなかったのだ。すると、今まで沈黙していたイレーネが口を開いた。「はじめまして。マイスター伯爵様。私はイレーネ・シエラと申します。どうぞよろしくお願いいたします」貴族令嬢らしく、完璧な挨拶をするイレーネ。「……確か、『コルト』とか言う田舎出身の男爵令嬢らしいな。未だに田園風景が多く、まだまだ発展途上の地域だろう?」ジェームズは無愛想な表情でイレーネを見つめる。(出た! 祖父の嫌味な態度が……!)「お祖父様。それは……」ルシアンが口を挟もうとした時、イレーネが笑みを浮かべる。「マイスター伯爵様は『コルト』のことを、よくご存知なのですね。はい、あの場所は田園風景が多く残されているので、農産物が特産品です。特に『コルト』のワインは絶品です。本日、こちらに1本お持ちしておりますので御夕食の際にお召し上がりになってみませんか?」「何? ワインだと?」険しかったジェームズの眉が少しだけ緩む。一方、驚いたのはルシアンだ。(何だって!? 『コルト』産のワインだって? そんな物を用意していたのか!?)「はい、ワインはお好きですか?」「う、うむ……そうだな。好き……だ」ゴホンと咳払いするジェームズ。「それは良かったです。祖父は若い頃、ワイン作りが得意だったのです」「なる程……君の祖父が」得意げに語るイレーネの話にジェームズは頷く。(イレーネ! 俺はそんな話、初耳だぞ!!)何も聞かされていなかったルシアンはイレーネに目で訴える。すると……。「何だ? ルシアン。お前は先程から彼女ばかり見つめおって……」「い、いえ! 決してそんなつもりでは……!」ジェームスの言葉に、ルシアンは首を振る。「まぁ良い。着いたばかりで疲れただろう。夕食の際にまた詳しく話を聞こう」ジェームズはス

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   81話 緊張するルシアン

    「ようこそ、ルシアン様。そして御令嬢、お待ち申し上げておりました」スーツを着用した大柄な男性が2人を出迎えた。男性は小柄なイレーネにとっては見上げるほどの大男だった。「まぁ……なんて大きな方なのでしょう」イレーネは男性を見上げ、思ったままの言葉を口にする。「う……ゴホン! イレーネ。彼はこの城の執事、メイソンだ。メイソン、彼女は俺の婚約者である、イレーネ・シエラ。よろしく頼む」ルシアンは咳払いすると、2人を引き合わせた。「イレーネ様でいらっしゃいますか? はじめまして、執事のメイソン・タイラーと申します。どうぞ、お気軽にメイソンとお呼び下さい」そしてメイソンはニコリと笑みを浮かべる。「私はイレーネ・シエラと申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」2人が挨拶を交わしたところで、ルシアンはメイソンに尋ねた。「メイソン。早速祖父に御挨拶したいのだが……今何処にいる?」「はい、旦那様は書斎にいらっしゃいます」恭しく返事をするメイソン。「では早速行こう。彼女の荷物を頼む」「はい、お部屋に運んでおきます」するとイレーネはメイソンに声をかけた。「あの、荷物なら自分で運びますわ」「え?」その言葉にメイソンは目を見開く。「い、いや! 荷物はメイソンにまかせておこう。それよりも早く祖父の元へ行かないと」ルシアンは慌てたようにイレーネの手を引くと、歩き出した。「え? ルシアン様?」何故ルシアンが慌てているのか、訳も分からないままイレーネは手を引かれてその場を後にした――****「イレーネ。以前にも話しただろう? 貴族女性はむやみやたらに荷物を持つものではないと」ルシアンはイレーネの手を引きながら話しかけてきた。「あ、そうでしたね。私ったらついうっかりしておりました。申し訳ございません」「い、いや。忘れてしまっていたなら仕方がない。だが、今後は気をつけるようにな。特に祖父の前では」素直に謝るイレーネに、ルシアンは声のトーンを落とす。「それにしても、本当にお城に住んでらしたのですね……床が大理石ですし、豪華なシャンデリアですねぇ」イレーネがうっとりした様子で周囲を見渡す。「そうか? あまり感じたことはないがな」その後、書斎に行くまでの間に2人は多くの使用人たちとすれ違った。彼らは深々とおじぎをしながらも、好奇心いっぱい

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   80話 浮かれるイレーネ、不機嫌なルシアン

    ガラガラと走り続ける馬車の中。昨夜一睡も出来なかったルシアンはウトウトとまどろんでいた。その時……。「ルシアン様! 見て下さい! すごいですよ!」馬車から外を眺めていたイレーネが突然大きな声をあげた。「な、何だ? どうかしたのか?」イレーネの声に一気に目が覚めた。「ほら、御覧ください。お城ですよ! お城!」イレーネが指さした先には森に覆われるようそびえ建つ城だった。「あれが祖父が住んでいるマイスター家の別荘だ。そろそろ到着しそうだな」「ええ!? あの城に現当主様が住んでいらっしゃるのですか!?」イレーネが驚きの声を上げる。「そうだが? それほど驚くことか?」「驚くことですよ! まさかお城に住んでいらっしゃるなんて、思いもしませんでしたから。私、一度でいいからお城に上がってみたかったのです。それがまさかこんな形で夢が叶うなんて……連れてきて下さってありがとうございます」イレーネは深々とお辞儀をした。「いや、礼を言うのはこちらの方だ。わざわざ祖父に会うためにこんな遠方までついてきてくれたのだからな。しかし……それほどまでに城に上がってみたかったのか?」「ええ、女性なら誰でも一度は夢を見るのでは無いでしょうか? 絵本の世界のようにお城で素敵な王子様に出会う……そんな夢を」うっとりした目つきで城を眺めるイレーネ。一方、ルシアンは何故か面白い気がしない。(何だ? そんなに王子というものに憧れているのか?)「そうか、だが残念だったな。生憎あの城に住んでいるのは年老いた老人だ。50年遅過ぎる」つい、意地の悪い言葉を口にしてしまう。「ルシアン様……?」しかしイレーネがじっと自分を見つめている姿を見た途端、後悔の念が押し寄せてくる。「す、すまない! 俺はただ……現実の話を……だな…」「プッ!」突然イレーネが口元を押さえて吹き出す。「イレーネ?」「フフフ……ルシアン様って真面目な方だと思っておりましたが、冗談も言えるのですね」「え? 冗談?」「確かに、お城に住んでいる方が全て王子様だとは限りませんよね? ですがルシアン様のお祖父様なら、きっと素敵な方に違いありません。お会いするのがとても楽しみですわ」素敵な方と言われ、悪い気がしないルシアン。「そうかな? だが今の話を祖父が聞けば喜びそうだな」そんな会話を続けているうちに、

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   79話 これは何だ?

    ――午前10時イレーネとルシアンは『ヴァルト』の駅に降り立った。「まぁ……何て気持ちの良い場所なのでしょう。森や山があんなに近くに見えるなんて。私が住んでいた『コルト』よりもずっと、自然豊かで素晴らしいわ」嬉しそうに周囲を見渡すイレーネ。「ここは避暑地として貴族たちから人気の場所だからな。その為、別荘地帯としても有名なんだ」イレーネの荷物を持ったルシアンが背後から声をかける。「ルシアン様、本当に私の荷物なのに持っていただいてよろしかったのですか?」申し訳無さそうにイレーネが尋ねる。「当然だ。俺が一緒にいるのに、君に荷物を持たせるわけにはいかないだろう? 大体俺の荷物など殆ど無いし」腕時計を見ながら返事をするルシアン。「そう言えば、何故ルシアン様の荷物は無いのですか?」「祖父の別荘には俺の服は全て揃っているからだ」「なるほど、流石はルシアン様ですわね」イレーネは妙な所で感心する。「突然の来訪だから迎えの馬車は無いんだ。あそこに辻馬車乗り場がある。行こう」ルシアンが指さした先には、数台の客待ちの辻馬車が止まっている。「はい、ルシアン様」2人は辻馬車乗り場へ向かった――****ガラガラと走り続ける馬車の中で、イレーネは上機嫌だった。「こんなに美しい森の中を走る馬車なんて、素敵ですね。空気もとても美味しく感じます」森の木々の隙間からは太陽の光が幾筋も差し込み、幻想的な美しさだった。「ああ……そうだな」浮かれるイレーネに対し、ルシアンの表情は暗い。何故なら、もうすぐ頑固な祖父との対面が待ち受けているからだ。(祖父は気難しい人物だ……果たして、こんなに脳天気なイレーネを受け入れてくれるだろうか? 何しろ前例があるからな。だが、今にして思えば反対されて良かったのかもしれない……)ルシアンは苦い過去を思い出し、ため息をついた。すると……。「どうぞ、ルシアン様」突然、イレーネが小さなガラスポットを差し出してきた。中には透明な丸い粒がいくつも入っている。「……これは何だ?」「ハッカのキャンディーです」「え?」顔を上げてイレーネをよく見ると、口の中で何かコロコロ転がしている。「先程から元気がありませんが、馬車に酔われたのではありませんか? 私はこのように舗装された道も辻馬車も慣れておりますが、ルシアン様はそうではありません

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   78話 昨夜のことは

    ――翌朝「今朝も素晴らしく良い天気ですね」食堂車両で朝食をとりながら、笑顔でイレーネがルシアンに話しかける。「……ああ、そうだな」眠気を殺しながらルシアンがコーヒーを口にし……チラリとイレーネを見る。(昨夜のアレは俺の見間違いだったのか? イレーネはいつもと全く変わった様子は見られないしな……)「ルシアン様? どうかされましたか? 私の顔に何かついています?」キョトンとした顔で首を少しだけ傾けるイレーネ。「い、いや。何でも無い……フワ……」危うく欠伸が出そうになり、必死で耐えるルシアン。「何だか眠そうですね? もしかして寝不足ですか?」「大丈夫だ、気にしないでくれ」けれど、ルシアンが一睡も出来なかったのは事実だった。「あ、分かりました!」イレーネが少しだけ身を乗り出す。「わ、分かった? 何がだ?」(まさか、昨夜のことを言い出すつもりじゃないだろうな……? いや、いくら何でもそれはないだろう。誰だって人に知られたくないことの一つや2つ持ち合わせているものなのだから)イレーネがじっと見つめる。「ルシアン様。さては……」「さ、さては……?」ゴクリと息を呑むルシアン。「寝台列車の旅が嬉しくて眠れなかったのではありませか?」「は?」思いもしない言葉をかけられ、間の抜けた声を出す。「ええ、その気持良く分かります。かくいう私も昨夜は興奮して中々眠ることが出来ませんでした。羊の数を1352匹まで数えたところまでは記憶しているのですけど、そこから先は眠ってしまったようなのです。いつもなら500匹以内には眠りについていたのですけど」ペラペラと笑顔で話すイレーネを見ていると、ルシアンは自分が思い悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。(一体何なんだ? 昨夜俺は見慣れないイレーネの泣き顔を見たせいで一睡も出来なかったというのに……だが、敢えて彼女は気丈に振る舞っているだけなのかもしれない。うん、きっとそうに違いない)そんなことを考えていた時。「そう言えばルシアン様。昨夜私……お祖父様が亡くなったときの夢を見てしまったのです」「え!?」驚きでルシアンの肩が跳ねる。「久しぶりでしたわ……お祖父様が亡くなったときの夢を見てしまうなんて。恥ずかしいことに、夢の中で子供のように泣いてしまいましたわ。どうしてあんな夢を見てしまったのかしら

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   77話 胸に秘めていたこと

    ――19時半 イレーネとルシアンは2人で食堂車両で食事をとっていた。「こちらの料理も、本当に美味しいですね。このお肉、とてもジューシーだと思いませんか?」イレーネはすっかり上機嫌で食事を口にしている。一方のルシアンは……。「それにしても……君があんなにカードゲームが強いとは思わなかった」ため息混じりにワインを口にする。「そうでしょうか? でも私が勝てたのは敢えて言えば……」「敢えて言えば? 何だ?」話の続きを促すルシアン。「それはルシアン様が分かりやすい方だからですわ」「ええ!? わ、分かりやすい? この俺が!?」「はい、そうです。ルシアン様は良いカードが回ってくると顔に出てしまうからです」「そ、そうか? 今まで何度も仲間内でカードゲームをしたことはあったが……そんな風に指摘されたことは一度も無かったぞ? 現にこんなに負けてしまったことは無かったし……」(もし、これでお金を賭けていれば今頃どうなっていたかと思うとゾッとする)ルシアンは身震いしながら考えた。「ええ、確かに傍目からは気付かない小さな変化ですが……気づいていませんでしたか? ルシアン様はツキが回ってくると、口角がほんの数ミリ上がるのです」「え? こ、口角が!?」慌てて口元を隠すルシアン。「プッ」その様子にイレーネが小さく笑う。「い、今……笑ったな?」「あ……申し訳ございません。今のルシアン様の様子が、その……可愛らしかったものですから……」可笑しくてたまらないかのように肩を震わせるイレーネ。「ええ!? お、俺が可愛らしいだって!?」(俺は成人男性だぞ!? それなのに可愛らしいだとは……!)けれど目の前で笑っているイレーネを見ていると、不思議なことに怒りが湧く気持ちにもならない。むしろ、穏やかな気持ちになってくる。そして、美味しそうに食事をしているイレーネを見つめるのだった――****――22時「それではお休みなさいませ、ルシアン様」隣のブースに映るルシアンにイレーネが声をかけた。「ああ、おやすみ。『ヴァルト』には、明日10時到着予定だ。7時になったら朝食をとりに食堂車両へ行こう」「はい、分かりました。それではまた明日お会いしましょう」ルシアンの言葉に、笑みを浮かべるイレーネ。「ああ。おやすみ」そしてルシアンは通路を挟んだ隣のブースに移

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   76話 浮かれる? 2人

    「まぁ……私、寝台列車なんて乗るの生まれて初めてですわ。こんなに素敵な内装の車両があるのですね。まるで一流ホテルみたいですね」ルシアンと一緒に一等車両に乗り込んだイレーネは物珍しそうにキョロキョロと見渡す。「そうか? そんなに珍しいか?」(まるで子供のようだな)目を輝かせながら、嬉しそうにカーテンに触れているイレーネをルシアンは微笑みながら見つめ……慌てて首を振った。(馬鹿な! 一体俺まで何を浮かれた気持ちになっているんだ? これから祖父とイレーネを引き合わせるという大仕事が待ち受けているというのに……! どうも彼女といると調子が狂ってしまう)「……様、ルシアン様!」「あ、ああ? 何だ?」考え事をしていたルシアンはイレーネに呼ばれて我に返った。「確か寝台列車というものは2段ベッドになっているのですよね? それではどちらが上で寝ますか? 私はどちらでも構いませんよ?」その言葉にルシアンは目を見開く。「君は一体何を言ってるんだ? いいか? 確かに俺たちは婚約者同士だが、それはあくまで名目上。同じブースで一晩過ごすはずがないだろう? 通路を挟んだ隣にもう一つ寝台スペースを借りている。俺はそこで寝るからイレーネはこの場所を使うといい」イレーネのトランクケースを棚の上に全てあげるとルシアンは隣のスペースに移動しようとし……。「お待ち下さい、ルシアン様」不意にイレーネに背広の裾を掴まれた。「な、何だ? 一体」女性に背広の裾を掴まれたことが無かったルシアンは戸惑いながら振り返る。「就寝時間までは、まだずっと先ではありませんか。よろしければ、ルシアン様もこちらの場所で過ごしませんか? 折角の2人旅なのですから楽しみましょうよ」(楽しむ……? 楽しむって一体どう意味だ!?)その言葉に何故かルシアンはドキリとするも、頷く。「ま、まぁ……別に俺はそれでも構わないが……」「本当ですか? ではどうぞ向かい側にお座り下さい」「分かった」(本当は持参してきた仕事をしようと思っていたが……まぁ、彼女の前でも出来るだろう)言われるまま、素直に向かい側に座るルシアン。「それではルシアン様。早速ですが……始めませんか?」「は? 始める? い、一体何を始めるんだ?」扉が閉められた密室の空間。イレーネの意味深な言葉に緊張が走る。「決まっているではあり

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status